私の頭のなかには、蟻がいる。
一匹ではない。
無数の蟻が棲んでいる。
いつからかわからない。いつの間にか居て、いつまでも居る。どこから入ってきたのかわからないから、追い出すこともできない。
頭蓋骨の内側で、細かく無数にぐるぐると、延々にくるくると、それはそろってざわざわ騒ぐし、ぞわぞわ這いまわる。こっちの状況なんてお構いなしに、日夜時間場所を選ばずざわざわぞわぞわと。時々なにかを呟いているような気もするけれど、私に蟻の言葉はわからない。
そんなことが続くときには耳かきを突っ込んで、めちゃくちゃに掻きまわさないと気がすまなくなるので困る。
きっと私の脳みそは喰い荒らされ、チーズみたいにスカスカなのだ。
アル中で死んでしまった祖父の脳は、スポンジみたいな写真だった。私もそのうちに誰のこともわからなくなり、自分の顔さえ思い出せなくなる日が来るんだろうか。
窓を見る。
汚れたガラス。そこに映る顔が見れない。
もう何年も、自分の顔をちゃんと見ていない気がする。それならばもうとっくに、思い出せなくなっているのかもしれない。
私は醜い。
けれども、そのことだけはしっかりと思い出せるのだから、私はまだ自分を憶えているのだろう。
この世界から、くまなく私の存在だけを消してしまえたらいいのに。
どれだけアルバムの写真を塗りつぶしたところで、そこに写っている顔たちは、きっと私を覚えているだろう。いっそのこと、そいつらの脳みそ全部喰い尽くして、すっぽり消してくれたらいいのに。
蟻を思う。
貪欲な。
私の中の。
夢憑き喰らう
第一章 西村蓮美
(ねえ、夢で殺されるってどんな感じ?)
それは白昼夢。
近くて遠い、セミの音に紛れて耳許でささやくのは、嬌声にも似た吐息。
真夏の陽気にも関わらず、一瞬で背筋が凍りつくような悪寒に襲われた。
たまらず耳をふさぎたくなる衝動を堪え、私は必死に前を見続けた。ふり向いてはいけない。
二次関数の定理が展開されていく黒板の、やや変質的な白文字を追うのがもどかしかった。
(聞こえてるんでしょう?)
試すような嘲りを含んで、声はどこか楽しそうだった。
けれども、私は耳を貸さない。目を向けてはいけない。聞こえていること、見えていることを知られてはならないのだ。
視界の隅で、うすっらとぼやけた女の子が、両肘をついてこちらを眺めているのがわかる。幼く小さな気配から、まだ片手の指ほどの年頃だろう。
三次限目の授業の最中、三階の教室の私のすぐ脇の窓から、無邪気なしぐさでこちらを覗き込むモノが、この世のモノであるわけがないのだ。
(ねえ、教えてよ。ハ、ス、ミ)
ふり向いてしまいそうになる。あぶないあぶない。厄介なことに、こいつは私の名前まで知っている。絶対に答えてはいけない。
おばあちゃんに言われたのだ。
こういう存在は、見てはいけない。耳を貸してはいけない。答えてはいけない。ましてや名前など、決して教えてはいけない。
名前には魂が込もる。名前を教えるということは、魂を取られることと同じ。
だから、私は答えない。見ないし、聞かない。
こうして聞こえないふり、見えないふりをしていれば良い。いつも、そうやってやりすごしてきた。
そのうちに向こうがあきらめていなくなるまで、根気強く、辛抱強く。もちろんその間にも、相手はしきりに呼びかけてくるのである。だからそれまで、私はただじっと耐えるのだ。気が狂いそうになる。
それが自分にしか聞こえない声なのだと知ったのは、いつだったろう。
小さいときは、それが当たり前だった。
目に見えるもの、耳に聞こえるものすべて、他の人と同じだと思っていた。
いつも電柱の前にたたずんでいる首のない男の人、お向かいの屋根の上を徘徊しているお婆さん、寝る時になると必ず天井に張り付いている髪の長い女性も……すべてが当たり前のように、誰にでも見えているのだと思っていた。
どこか奇妙であるとは感じていたけれど、あえて誰も口にしないから、そもそもそういうものなのだろうと納得させていた。道端にある小石だとか、空に浮かんでいる雲であるとか、そういった有象無象の存在なのだろうと。
けれどもある日、そのことを母親に話したとき、彼女のなんとも言えない――疑惑、不安、恐怖、警戒……、そういったものすべてを潜めた眼差しを目の当たりにして、ようやく私がおかしいのだということに気づいたのだった。
それでも信じたくはなかった。自分が見ている世界が、他の人たちと違うなんて。
友だちに言ってみたこともある。最初はみんな驚いた顔で、羨望の目を向けてくれたけど、日をおかずそれが白い目に変わり、私はただ気まずい思いをするだけだった。
実際、それがいけないものであることを教えてくれたのは、祖母だった。
(ええかい、蓮美。この世にはねぇ、生物《ヒト》と、ヒトでないモノのふた通りがいるんだよ。蓮美にはその両方を見ることのできる、すばらしい能力《ちから》があるんだねえ。おまえのおじいちゃんもそうだった。――でも、関わっちゃいけないよ。ヒトでないモノは、人を陥れたくていつも狙っているんだ。言葉に耳を貸してはいけないよ。そう、おじいちゃんのようになったらいけないよ)
おじいちゃんは、私が生まれてすぐに亡くなってしまったので、どんな人かわからない。おじいちゃんのことは、家族や親戚の間でも暗黙の話《タブー》になっている。
だから私は、くわしくは知らない。誰に聞いても教えてもらえない。けれども断片を集めて、その最期だけは知ることができた。
眠りから覚めない病気に罹っていたおじいちゃんは、ある日病院で突然目を覚ましたかと思ったら、そのまま――狂死、したらしい。
(蓮美。おじいちゃんのようになったらいけないよ)
おばあちゃんの口癖だった。
(夢で殺されたらいけないよ)
私は顔をあげる。
視界の隅では、まだおぼろげな幼女《こども》の姿をしたモノがいて、無感情にこちらを眺めていた。まるで、私が答えるのを従順に待ち構えているかのようでもあった。
真っ青な肌に、ぽっかりと眼窩が空いていて、真っ赤な血に濡れた眼球がのぞいている。
嫌なものを見たな、と思った。それでもいつもどおり、何事もなかったように黒板に目を戻した。
もうどこまで進んだのか、わからなくなりかけていた。私は周囲に聞こえないよう、小さくため息をついた。
こんな能力《ちから》あったところで、なんの役にも立たない。まったく、迷惑なだけだ。街中にあふれている、私にしか見えない姿、私にしか聞こえない声――私の苦しみなんて誰もわかってはくれない。
今日もひとり、長い一日をすごす。まぶたを閉じ、耳をふさぎ、心を閉ざす。
時々見る夢がある。
私は、わりと夢を見るほうだと思う。でも、別にめずらしくはないと思う。他人と比べたことはないけれど。
それでも夢の続きを見る機会は、人よりも多いような気がする。比べたことはないのだけれど。
いつもの夢だと思った。
真っ暗な道。走っている私。足音が反響する。重圧感と陰鬱な湿気。きっとここはトンネルだ。はるか後ろには、微かな光が見えている。けれども私が向かうのは、背を向けた闇の先。追ってくる足音。私は逃げている。
なぜ逃げているのかはわからない。なぜ追われているのかわからない。本当に逃げているのか、本当に追われているのか。
夢というのは、得てして不条理なものだ。
私が覚えているかぎり、それは小学生のころから見はじめた夢だった。それから高校二年の現在《いま》まで。なんの脈絡もなく、まるで忘れたころを見計らうかのように、忘れさせまいとするかのように、その夢は現れる。
ああ、いつもの夢だ、と思う。
しかしそれは、正確には続きではない。
暗く長いトンネルの中、カーブになった道を駆けてくるところから始まる。どこか覚えのある景色だと思うのは、何度も夢に見たせいだろうか。
何度も後ろをふり返り、誰も追ってきていないことを確認するのに、それでもついてくる足音に悩まされ、もがいて走っている。汗だくで息もあがって、悲鳴のように喉が鳴る。擦れたようにかすれて。引き裂くようにくり返して。たしかめるようにふり返る。