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「斎河高校探偵団女子部」~ ヤシマサン

セクション1

    セクション2

 私は、ひどく平凡な人間であると思う。
 「平凡」というのは、「一般的」ということであり、「平均的」ということでもある。
 すなわち、とりたて秀でたところはないが、目立って劣っているところもない。きわめて普通の(なにを基準にそう呼ぶのかは知らないが)、どこにでもいる標準的な一女子高生だ。
 そう。私がまず何者であるかを説明するためには、この「女子高生」という肩書きは外せない。
 所属というのは、個人を表す修飾のなかで一番外側にある。初対面の人間の第一印象を、外見に求めるような認識だ。
 社会人が名刺交換するとき、名前より先に社名や役職に目がいってしまうのは、まず相手がどういう立場であるかを知り、その情報を元に円滑に応対できると思っているからである。
 つまり所属というやつは、最も他人行儀な存在であると同時に、最も本質であるのかもしれない。
 橘舞子というのが、私の名前である。
 所属の次に気になるのが名前だろう。名前というのは、唯であり全でもあるからだ。
 つまりまず、こう言いたい。橘舞子は、ひどく平均的な高校一年生である。
 平均的というのは、標準であるとも言い替えることができる。
 どのくらい標準かというと、身長に体重、学業成績にいたるまで、自分でもあきれるぐらいに模範的なのであった。
 思春期まっさかりの多感な年頃ではあったが、さすがにこの時期特有のテンプレ、自分が何者であるかなんてことにはさすがに思い悩みはしなかったものの、この「普通」であるということには、少なからぬ違和感というか、腑に落ちないものを抱かずにはいられなかった。
 要は、「普通」は個性になりうるか、という問題である。
 そもそも小学生時代から、テストの結果は常に平均点。当然、通知表もオール3ラウンダーである。しかしながら、高校生からは違う。私は生まれ変わるのだとばかりに猛勉強したものの、これはもう逆にある種の才能なのではないかしらと開き直らずにはいられない中間テストが終わった、六月のはじめのことである。
「よーし、くそ。今日は反省会だ反省会。舞子んチ集合な」
 むくれた亮子が、涙目で宣言した。校門を出たところだ。さらさらの軽めのボブが幼さを引き立てる。彼女のキューティクルには結構嫉妬している。
「え、また?」
「ほなら、まずは買い出しやな。お煎にキャラメル、ガールズトーク」
 三つ編みにメガネの環は、大福みたいなほっぺを揺らす。その隣で、手のひらを合わせて可愛い女の子アピールに余念のない、そばかすの葵里。
「いつものスーパーね! やっふー、あそこお安いよねー」
「待て。あんたら、まず私に確認しなさいよ、私に!」
「あー、オッケーオッケー。いいよー、勝手にあがってー」
「なんであんたが返事すんの!」
「ぁ痛っ! 見た? いまの見た!? 殴ったわよ、この女。いたいけでうるわしい、可憐な少女の頬を! 傷口に粗塩を塗り込むかのように!」
 ちなみに亮子は、代表して佳代ちゃんに愛ある教育的指導を受けてきたのだ。それを見た生徒は口をそろえて言う。誓って折檻ではないと。
 それから、B棟にある鏡すべてに貼りつくした百八枚のお札を剥がしてくれた用務員さんに謝りに行ってきたのだが、良い人でよかった。
 テスト明けで午前あがり、それにくわえて部活もない。天気はいいし、しかもウィークデイ。みんなが浮かれないわけがない。
 カラオケ行こうよ、と帰りがけに別のグループにも誘われた。いささか魅力を感じないではなかったけど、今回は見送ることにした。ほっぺ腫らした小さいのが、じっとりこっちをにらんでいたから。
 自然とみんなの足は、慣れた私の通学路に向いていた。
 私の家は、わりかし学校の近くにある。少なくとも徒歩圏内だ。亮子と葵里は電車通だし、環は自転車である。わずか三ヶ月のうちに、橘家はすっかりたまり場になってしまっていた。
「あ! 今日、月刊レムールの発売日じゃん!」
 小さいのが、とてつもない重大なことを思い出したかのように、往来で老舗オカルト雑誌の名前を叫ぶ。
「……あんた、影でレムールってあだ名ついてんだから、教室で読むのやめなね」
 数少ない友だち代表として忠告すると、メガネザルの名前をつけられた彼女は、いかにも不満そうに片頬をつりあげた。
「言わせたいやつには言わせときゃいいのよ。群れることしかできない烏合の衆めが」
「りょっぺカッコイイ!」
「いやいやアオリン、つけあがるからそんくらいにしとき。こやつ、ナリが小さいもんやから、すぐ大きう見せようとしおるさかいな」
「うっさい、でかいのはだまってろ。いつかやつらは裁きにあう。せいぜい悶え苦しめ」
「あー……、そらあかんわー。もろ脅迫罪やわ、亮子。刑法第222条」
「いつか人は死ぬ、て言ってるだけじゃないかバカ! そしたら、田舎に貼ってる黒い看板みんな訴えられろ!」
 私は地獄があるならばもしかしたらと、このすこーし残念な友人に同情の念を寄せることにした。
 葵里は駆けだして、スーパー『リンリン』の前で手を振っている。ロゴがパンダの、私が生まれるよりずっと昔からある、近所のぼろいスーパーだ。全国を侵食しつつあるどでかいモールの魔手を巧みにかわす地域密着型だ。
「あとで本屋寄りたい。売り切れたら困る」
「わかったわかった。定期購読しなさいよ」
 環が店の駐輪スペースに自転車を停める。鍵をかけるのを待って、私たちはリンリンの自動ドアに向かった。
「ねえ舞子、あんた『from』やってないんだっけ」
 亮子は有名なSNSの名前をあげた。聞いたことぐらいはある。五年ぐらい前から流行りだして、あっという間にSNSの代名詞みたいな扱いになった。もっとも最近は人気も下火のようで、最盛期の登録人数の約半分以下までに利用者が減ったそうだ。
「やってない。おもしろいの?」
「やりなよ。おもしろいから」
「うん、今度ね」
 私の哲学なのだが、何事も他人から勧められておもしろかった試しはない。たとえばお薦めの本とか。雑誌で有名人が紹介してたりしても、私はそれを鵜呑みにしない。おもしろいものは自分で見つけてこそだ。
 店内に入ると、もはやあたりまえのように環が買い物カゴを持つ。
「お茶でいいよねぇ? コップ出してもらえばいいし」
 葵里が二リットルのペットボトルを抱えて持ってきた。
「あとクッキー系? お昼まだだし、パンも入れていい? みんなでわけれるように、おっきいリングのパンでいいよね」
「おう、どんどん入れや。まだ月始めやからな」
 勇ましく言いながら、環はスナック菓子をふたつカゴに放り込んだ。すでに葵里が入れたせんべいとチョコチップクッキーがある。
「はぁ? ふざけんな。自分基準で考えんなよ。誰がそんなに食うんだよ。会計4対2対2対2だからな」
「お、うっかりしとったわ。サラダ油を忘れとった」
「おい、無視すんな」
 御影亮子は実際性格は悪いし、当然のように口も悪い。
「あったあった。この安いのでええか、亮子? いやでも、ブランドにこだわりそうやなぁ。まあ、費用対効果はあるみたいやな」
「え。りょっぺ、油飲んでるの? だから、いつもそんなに口まわるの?」
 葵里はびっくりしたように亮子を見た。
「うわ、カロリー高っ! あ、いやそういう問題じゃなくて、飲むか! いじめか、おまえら」
 環がカゴにどんどん突っ込んでいく後ろで、私は冷静にそれらを元の場所に戻していく。
「そういえば、このあいだ姉さんからもらった紅茶があるんだった。ごめん、葵里」
 承知と葵里は、ペットボトルを戻しに行く。
「ナイスだよ舞子。立派な主婦になれる。あたしが保証する」
 亮子が笑顔でほめた。こいつは本を買う予定だから、あんまりお金がないのだ。
「……で、『from』がどうしたって?」
 代表して葵里がお会計するのを見ながら、私は隣の亮子にたずねた。
「ん? あんた、やってないんでしょ?」
「やってない」
「環は? ……ってか、疑り深いからなぁ。葵里はそもそもやるわけないし」
「なに、やらせたいの? 招待制だっけ?」
「いや、説明すんのが面倒だから、やってれば楽だなぁと。――あ」
 なにかに気づいて、亮子がレジのほうへ走っていく。サラダ油がスキャンされたところだった。
「え。りょっぺ飲むって言ってなかった? え? 違うの?」
「だから、誰が飲むか!」
 こういう場合、葵里はわりと本気で言っているのであなどれない。
「今度なんか作ったらええやん。舞子んチ置いとこ」
「油で? なに作るのよ。さすがにこんなに使わないでしょ」
 あいにく我が家は、最近サラダ油の買い置きをそろえたばかりである。しかも姉の希望で、わりとヘルシー志向なやつだ。
「ふふん。ここはてんぷらパーティを推したいとこやな」
「わ! 素敵!」
「いいわねぇ。みんなで具材持ち寄って?」
「来た、闇てんぷら!」
「ちょっと亮子、悪い顔になってるよ」
「よし、ほなら来週な」
「……んん? ちょっと待って。会場どこのつもりよ? 却下却下」
 レジのおばさんに生あたたかい目で見られながら、サラダ油を返品する。
 買い物袋を抱えた葵里が笑顔で戻ってくるのを待ってから、私たちはスーパーをあとにした。ビニール袋は、駐輪場で環のハンドルに掛ける。
「よし行こう」
 亮子が先頭に立つ。
 次の目的地は、近所の書店である。そこも、かろうじて有名大型書店の洗礼を逃れて、細々と経営している。
「やった。あった」
 愛読書を手に入れて、彼女はほくほくである。人類を支配するアルファベットのカードに陰謀論をにらんでいる亮子は、この本屋を贔屓にしていた。彼女の家も個人商店というのもあるのだろうと私は思っている。
 ここから橘家は、徒歩五分圏内だ。猫の額ほどの庭のついた、画一的な建売住宅である。
 私がまだ小さい頃、このあたりが土地改革のあおりで新興住宅地として開発され、それまでこの近くの古い家に住んでた私たち一家もなんとなくその新しいものに惹かれるように引っ越してきたのだ。だからまだ築十年も経っていない。
「ほんと舞子んチ、あこがれるなぁ」
 玄関でローファーを脱ぎ捨て、亮子がぼやいた。
「どこが? ふつうだよ」
 私は苦笑した。葵里が亮子の靴もきちんとそろえてから、お邪魔しまーすと無人のリビングに声をかける。
「ふつう? よく言うわ。普通は高校生の娘置いて、両親が海外で生活するとかないから。アニメかって」
「姉さんいるからよ。私ひとりじゃ無理無理」
 私には四つ年の離れた姉がいる。短大を卒業して、去年からローカルな情報誌なんかを扱う会社で働いてる。
「超美人! 遺伝子疑うわ」
 事実、姉は家族のひいき目を抜きにしても美人なのである。残酷だ。そのうえ、もともと彼女はなにをやらせても優秀なものだから、ことあるごとに平凡たる妹は比較され続けてきた。
 「舞子のお姉ちゃんすごいよね」と言われ、「舞子のお姉ちゃんはすごいのにね」とも言われ、「舞子はお姉ちゃんみたいにすごくないよね」というとこまできた。
 いや。出来すぎた姉をもつ平凡な妹のコンプレックスなど、いまはどうでもいい。
「うらやましい。私も大学行ったらひとり暮らしするんだ」
 亮子がひっひっ、と不気味なふくみ笑いをもらす。
 勝手知ったる他人の家とばかりに、環はキッチンでお湯を沸かしはじめた。
「マイ。紅茶出して?」
 葵里は食器棚を開けてティーカップを並べはじめてるし、亮子はお皿にお菓子をセッティングしだす。こいつらの手際の良さにはおそれいる。
 その後、葵里が得意のオムライスを作ってくれたり(食材は橘家のものだが)、亮子がさっそく特典のDVD鑑賞をはじめて、怖がりな環に強制的にコンセントを抜かれたりと、いつものように私たちは、お腹もふくれて、わいわいとばかみたいにはしゃぎ、意味のない会話に満足しながら、窓から差し込む日差しも心地よくて、だらだらと、こんな日々がこれからもずっと、今日の延長のまま続いていくことに、なんの疑いも抱かなかった。
 あるときに――、なにかの拍子に、ふっと会話が途切れる瞬間がある。亮子はそれを、空間の呼吸と呼んでいた。
 ひとの心に魔が差す瞬間も、それによく似ているそうだ。
 その瞬間に、空気が変わる。
「そういえばさ――」
 ずっとそれを待ちかねていたように。亮子はその空間の呼吸に、自分の呼吸を乗せるのが抜群にうまかった。だから、私たちもいつも乗せられてしまうのだ。
「おもしろい話をしよう、と言って話しはじめると、おもしろさが半減するものよ。――だから怖い話をしよう、とは言わない。そうね、怖くない話をしましょう」
 反射的に環がばっと手をあげて、両耳を覆った。
「……こ、怖い話をするんやな?」
 彼女は怪談が大の苦手なのだ。
「あんた、あたしの言うこと聞いてた? 怖くない話」
「毎度毎度も騙されるかいな、詐欺師め」
「ひと聞き悪いこと言わないでよ。あたしがいつ騙したってのよ」
「ひょっとして、さっきの『from』のこと……?」
「さすがは舞子」
 亮子はにやりと笑った。
「……『from』って出会い系か?」
「聞きたくないんだったら、口はさむんじゃない。出会い系じゃなくて、健全なSNS」
 不満そうに環は、クッションをひっぱってきて顔をうずめた。こうなると彼女は、話が終わるまで岩のように動かない。
「わたし、『from』のオカルトフォーラムで管理人やってるの。……ああ、別に誰でもなれるのよ。自分でスレ立てして、書き込んでくれたひとには挨拶して、コメントにはレスつけて、荒らしは排除して――普通の掲示板よ。まあ、そんなに活発なとこじゃないけどね」
「掲示板」
 葵里が反芻した。この子はよく他人の言葉をそのままくり返すが、特に意味があったりはしない。
「わたしほら、『実録・百物語』書いてるじゃない? ネタ集めの一環よ」
 文芸部に所属しているが、それとは別にネット上で、彼女がそういう、あまり趣味が良いとは言えないものを書いて公開しているのを知っている。
「そこで、ちょっと不思議なことがあってね。みんなに助けてほしいのよ。正直、知恵を借りたい」
 普段は強気な亮子にめずらしく、助けてほしいなどと頭をさげるのに、私は少し興味をもった。
 なにせ私は、姉の影響もあってだがミステリの愛読者である。謎があるとうずく。
「この話を持ってきたのは、中学生の女の子だった。『from』が運営してるフォーラムだから、書き込むとプロフィールもそのまま表示されちゃうのよ。で、ハンドルネームは『FCaT』さん」
 亮子はモバイルで、『from』の画面を見せてくれた。『FCaT』さんのプロフィールと、該当のフォーラムでの書き込みの箇所だった。よく見れば昨日である。テスト期間中になにをやってるんだ。
「出身地が『秘密』になってるわね」
「職業は『学生』だね。年齢が『14』」
 私と葵里がこぼす。
 プロフィール画像は、鏡に向かってケータイで自分を撮影している女の子の写真だった。端末とフラッシュがいい具合に顔を隠しているが、幼い感じで、たしかに中学生ぐらいに見える。半袖Tシャツがまぶしい。その違和感に、私はすぐには気づけなかった。
 書き込みについては細かくて長くて、ちょっと読む気がしない。スマホを借りようとしたら、「ちなみに私のはこれなんだけど」とたのんでもいないのに、亮子が自分のプロフィールページを見せてくる。
 画像は極限までアップにしたせいでぼけている、目のドアップだった。まあ特徴的なので、わかる人が見れば亮子と判別はつくが。
「……えっと。ごめん。これ、『りょうこ』って読むの?」
 当て字にもほどがある。『魎呼』とか。
「はァ? それ以外に読めないでしょう。馬鹿かおまえ」
 イラッとしたが、……まあいい。
 亮子は画面を消すと、小さく一度せきばらいをした。
「『FCaT』さんの書き込みはこうよ――」

 

 

    セクション3

 

 もともと『FCaT』さんはおとなしい性格で、友だちも多くはないらしい。
 ある日の授業が図書館での自習になり、読書が好きな彼女はこっそりうれしく思っていた。ところが他の生徒たちは、ここぞとばかりにがやがや騒ぎだす。
 辟易としてしまった彼女は、なるべく静かな場所へと移動する。そしてしまいには椅子を立ち、本棚の影にまで退避しなければならないほどに。
 『FCaT』さんは性格のせいか、たまにイジワルにからかわれたりする。いじめ、とまではいかないと思っている。いやがらせ、というほどでもない。
 たとえば、こそこそ話。それが自分のことを話しているのだと、なんとなくわかる。
 気配は空気を伝う。
 少し離れたところからでも届くのだ。
 それはたぶん、たしかに自分に向けられた悪意だからで、目に見えなくとも感じてしまうのだろう。
 ただそういったものは、指向性をもたなければ届くものではない。
 そうでない悪意などは、その周辺に漂うものとなる。
 たとえば悪だくらみ。あるいは背徳的な話題。忍ぶ性や、良からぬうわさ話。
 それと。
 ――怖い話をしていると、なんとも言えない独特の空気に包まれることがある。
 悪意ではない。それに近いわけでもない。
 なのに。
 それは届く。
 漂うだけの空気なのに、いや、汚染され、感染するのかも知れない。
 立ち並ぶ書架の奥。誰に読まれるとも知れぬ、褪せてやぶれた背表紙の、古い本の群れ。ほこりっぽい教室の隅。日差しから逃れるようにカーテンを引き、開いた窓からのぬるい風に揺れる。そこに群がる数人の女子生徒。
(……聞いた話なんだけど)
 親しいわけでもない、同じクラスの子たち。その中心で、声をひそめて、ひっそり、うわさ好きのクラスメイトが、高揚を押し殺し。
(知ってる?)
 誰も知らないことを見越して、わざとそうたずねるのだ。耳を澄ます少女たち。空気に侵された周囲も知らずに。
(夜中にピンポーンって鳴って)
(誰だろう、こんな時間に――)
(ドアをちょっと開けて見ると、真っ黒な――ぼろぼろの服を着たひとが立っていて)
(なにが入っているのかわからない――大きなリュックを背負ってて)
(一見、浮浪者みたいで)
(帽子で顔も見えなくて)
(だから男なのか女なのか、若いのか年寄りなのかも――)
(どなたですか、って聞くのね)
(すると)

  ……か、……るか?

 

(よく聞きとれない声で)
(男か女か、若いのか年寄りなのかもわからない声で)
(ぼそぼそと)
(え、なんですか――、って聞き返すんだけど)

 

  ……るか、あ……い、か。

 

(やっぱり聞きとれなくて)
(ただ、――いるか? ってのは聞こえたから)
(なにかの押し売りだと思って)
(眠かったし、時間も非常識だったし。なにより気味悪かったし)
(だから)
(いりません、って追い返したの)
(ドア閉めてしばらく、ずずず、ずずずず、てなにか引きずる音が遠ざかっていって)
(こっそり外をのぞくと、その怪しい影はいなくなってて)
(なんか嫌な気分で、その日は寝ちゃったんだけど)
(次の日の朝ね)
(目覚ましが鳴って)
(目がさめて)
(起きなきゃ、って体を起こそうとしたら)
(変なの)
(起きれないの)
(その人の手と足ね)
(――なくなってたんだって)
 少女が残酷な笑みで、そっと息をつく。とりまく少女たちが、ぞっと身を寄せる。
(またある家に、ピンポーンって――)
(やっぱり、夜遅くてね)
(玄関あけたら、ぼろぼろの真っ黒な服を着た、やっぱり男か女か、若いのか年寄りなのかもわからないひとが立ってて)
(どなたですか、って聞くとね)
(やっぱり)

  ……るか、あ……いるか。

 

(て、言うのよ)
(ぼそぼそと)
(またその人も聞き返すんだけど)

 

  ……ぃるかぁ、あ……いるか。

 

(聞きとれないの)
(酔っぱらいかなにかだと思ってね)
(ああ、いるいる――って、適当に答えてあしらって)
(ドアを閉めたの)
(警察呼ぼうかと思ったけど、すぐに、ずずず、ずずずず、てなにかを引きずるような音が離れていって)
(あきらめて帰ったんだなと思って、その日は寝ることにしたの)
(そしたら翌朝)
(目が覚めるとね)
(そのひと)
(肩から、股から)
(おびただしい数の手と足が、びっしりと)
(びっしりと)
(生えていたそうよ)
 あわれな少女たちは、息と悲鳴を飲み込む。話が終わるまで、空間を乱してはならぬとばかりに。そこは、語り部の結界の中なのだ。
(そのひと、思い出したのよ)
(ふと――あれ? ってなって)
(昨夜の浮浪者だか酔っ払いだか物売りだか知らないけど――)
(こう、聞こえたような気がして)

  手ぇいるかぁ?
  足いるかぁ?

 

 桜色のくちびるから紡がれる美しい声は、呪いのように重く。毒を飲んだように痺れる。

 

  手ぇいるかぁ?
  足いるかぁ?

 

 無邪気に微笑む少女。そこに本当に邪気はなかったのか。
(――ところで)
(これは三年の先輩に聞いたんだけど)
(先輩のところにも来たって言うのよね。ほら、陸上部の――さん)
 どよめきたつ娘たち。共通の実在に、怪異は現実とリンクする。堪えられず悲鳴がもれる音を聞く。
(問題はね)
(いま、この近所にいるってことじゃない?)
 いや、その先輩の姿は今朝見たはずだ。何事もなかった。見たかぎり、五体満足であったはずだ。
(そう、先輩はなんともなかった。なぜなら対処法を知っていたから)
(もし)
(もしもよ)
(もし、このなかの誰かの家に)
(今夜でも、夜遅くに誰かが訪ねてきて)

 

  手ぇいるかぁ?
  足いるかぁ?

 

(て、言われても)
(安心して)
(そしたら、こう答えるの――)
 息をひそめ、声をひそめ、耳をすます。
(…………――――)
 自習の終わりを告げる、チャイムの音。
 

 

 

    セクション4

 

「は、はよ! はよぅ教えてんか!」
 環がクッションから絶望的な顔をあげた。涙目だった。
 無視して亮子は、こちらに向き直った。まっすぐ、うるんだ目で。
「『FCaT』さんがうちの掲示板に書き込んだ動機は、もしそれを知っているひとがいたら教えてほしかったから。チャイムのせいで聞きとれなかった言葉を」
「そんなの、そこにいたひとに聞けばいいだけじゃん」
「だから彼女、友だちいないんだって。しかも盗み聞きしてたわけだし。それが原因で、また嫌な目に遭う可能性もあるのよ?」
「うーん。で、いたの? その、フォーラムで知ってるひと」
「いたらここで、こんな話しないわよ」
 それもそうだ。
「ちなみにね。これ『FCaT』さんに聞いたんだけどね」
「うん」
「住所のところ、『秘密』になってたじゃない?」
「あ、それ聞きたくないやつだ」
「隣の市だった」
「き、聞いてへんで!」
「いや、あんたがっつり聞いてたじゃん」
「無責任やないか! もしそいつが来たら、なんて答えたらええねん!」
「それを考察するのが、斎河高校探偵団じゃない」
 これ以上は時間の無駄とばかりに見切りをつけると、亮子は手を叩いて立ち上がった。カバンから革の手帳を取り出してページをめくる。
 その手帳は、亮子の虎の子である。
 不思議な話を蒐集する際に使っている、いわば取材ノートのようなものだ。ちなみにどんなことが書かれているのか、いまだかつて見ようと思ったこともないのだが、私たちのあいだではひそかに、『中二病ノート』と呼ばれている。
 そもそも彼女が一方的に設立した「斎河高校探偵団」というのは、だいたいが亮子が持ち込んだ事件に、私たちを巻き込んでめちゃくちゃにしている感じで。
 ただ、なんと言うか。このいかれたオカルト好きの友人が、その小さい体で無鉄砲に無茶苦茶やるのが、ちょっとだけうらやましくて。ほんとちょっとだけなら付き合ってやってもいいかな、というのが私個人の感想でもある。
 他の二人がどう思っているのか知らないけど。
「ねえ、りょっぺ。あのさ」
 葵里がくちびるに指をあてながらたずねた。
「その『FCaT』さんと会ったの?」
「は? なんで?」
「うん。あのね、住所聞いたって言うから。プロフィールで『秘密』にしてるぐらいだから、他の人が見るところに書き込んだりしないでしょう?」
「ああ、直接メッセージのやり取りができるのよ。フォーラムに入ってるメンバー同士で。メールアドレスとか知られないでやれる」
「あ、そうなんだ。それじゃあさ、『FCaT』さんに直接会ったらだめなの?」
 なるほど。それは手っ取り早い。なんなら、他の生徒に聞き込みすることだってできるだろう。
 葵里はいつものほほんとしているのだが、この四人のなかでは一番成績がいい。思考が飛躍することが多く、すぐ回答を導きだすが、自分でも計算式を理解していない場合があったりする。
「だめね」
 即座に亮子が否定した。
「……は? なんで?」
 私が聞き返しても彼女は答えず、勝手に話しはじめる。
「これはいわゆる『正解を答える』タイプの怪異ね。類似系では、学校の怪談で出てくる『赤マント青マント』かしらね。地域によっては『赤い紙青い紙』だったりするみたいだけど。知ってる? 『赤いマントと青いマント、どっちがほしい?』って聞かれるやつ。どっちもトレイに現れるんだけど」
「知らん。正解は?」
 環が保身のために乞う。そんな彼女に冷たい一瞥をくれて、亮子は続ける。
「『赤い紙がほしいか、青い紙がほしいか』っていう派生もあるわ」
「は? どう違うんや。で、正解は?」
「赤マントを選ぶと血まみれで死ぬ。青マントだと血を抜かれて死ぬ。ちなみに紙の場合も同じ」
「そんなん、選択肢の意味ないやん! ……で、正解は?」
「環、顔色悪いわよぉ。もしかして、青選んだ?」
「やめ言うとるやろ! もうホンマたのむさかい、正解教えてぇな!」
「あらあらァ、ちょっと震えすぎじゃない? ひょっとして、白だったのかしら。それとも黄色?」
 亮子はにやにやしながら、手帳のページをめくった。
「し、白? 白や黄色ってなんや! 赤と青やないンか?」
「まあだから理屈としては、正解を答えれば回避できるものになるわね。これもおそらく」
「さすがに可哀想だよ、りょっぺ……」
 葵里が同情的に環の腕をとった。
「アオリンだけが味方やな。女神さまや」
 まあ亮子にしてみれば、いつもやられているので仕返ししてるんだろうけど。
「仕方ない。今回はこのへんで勘弁してやるか。ちなみに、『どっちもいらない』が正解だから」
「『どっちもいらない』!」
「どっちもいらない」
 環がすばやく叫んで、葵里が笑顔でつられた。
「……ああ。血だらけにもならず、血も抜かれず、ってことね」
 私は合点がいってうなずきかけたが、すぐに首をかしげる。
「でもさ。これ、『いる』でも『いらない』でもアウトじゃん」
 いると答えれば手足が増えて、いらないと答えたら手足がなくなるのだから。手がない。あ、いや。言いかたがまぎらわしいな。
「そうだね」
「うーん、でもさ」
 葵里が指摘する。
「これって、都市伝説ってやつでしょう?」
「分類としてはそうなるのかもね」
「都市伝説って口裂け女や人面犬とかの?」
「有名なとこではね」
 なんだ。私は拍子抜けした。
 ならこれは、フィクションじゃないか。
 もっと早く気づくべきだった。そもそも赤マントは学校の怪談だし、そういうのと同系列。すなわち、いるかもわからない四時ババアを封じるのと同じ。
 指摘したほうがいいんだろうか。それとも、空気を読むべきか。
 私は――、亮子のようにオカルトにかぶれてはいない。幽霊はいるんじゃないかと思う。宇宙人はいてもいいと思う。妖怪は概念だと思うし、神様は信じたい。
 では、四時ババアや赤マントは幽霊だろうか。それとも妖怪だろうか。
 個人的な見解だが、現実にすり寄ってきたフィクションだと思う。いるかもしれない。いないと言いきるには弱く、いると断言するには乏しい。それが都市伝説の立ち位置だ。
 要は――、楽しんだもの勝ちなのだ。平凡でないことに夢中になれる亮子がうらやましいし、本心で言えば私も楽しみたかったのだ。それも環のように、あくまで安全な場所でだ。さながら本をひろげて、陰惨な無差別殺人事件をながめるように。ページの外で安楽椅子を揺らす存在として。
「葵里さ。さっき『FCaT』さんに会えば、って言ったよね」
 亮子はもう一度、『from』の『FCaT』さんのプロフィールページを開いて見せる。
「あ、あれ……?」
 葵里はなにかに気づいたように声をあげた。言葉が少し震えていた。
 その写真――鏡に向かっての自撮りである。
 半袖のTシャツはやや大きめで黒い。そのプリントも、いかにもオカルトのフォーラムっぽいと思うのは偏見だろうか。そこから伸びる右腕は細く、スマホをにぎった手を顔の前で構えている。インカメで撮ればいいのにと思ったが、顔を隠すためなのだろうと納得する。顔が小さい。中学生にしては小柄なほうだろう。チビの亮子と同じか、それよりもっと小さいか。さらさらのストレートロング。そして左手は……
 写っていなかった。
「結論から言うと、彼女は片腕を失ったの。図書室でその話を聞いた日の夜。そう――、来たというのよ」

  手ぇいるかぁ?
  足いるかぁ?

 そこで彼女はなにかを答え、その結果、片手を失った、というのか。
「あ、足は……?」
 環が震えながらたずねた。
「無事みたい」
 困惑げに眉根を寄せて、亮子が肩をすくめる。
「まあそんな状態だから、ずっと引きこもってるらしいのよね。とても誰かと会いたいとは思えないわよね」
「そう……、よね」
「ネットではやり取りできるし。それにほら、『from』の登録日も私より古いから、彼女なりに調べられることは調べたんじゃない? そのうえで、新規のウチのフォーラムにもコメントしたんでしょうね」
 プロフィール欄の『開始日』という項目には、四年前の日付が表示されていた。たしかに『魎呼』は二年前だ。
「なんて答えたんや、彼女?」
「教えてくれないの」
 環が絶望的な悲鳴をあげた。
「なんでや!」
「正しくない、からじゃないかしら」
 亮子はもう一度小さな肩をすくめた。
「……ちょっと待って」
 私はとっさの疑問を口にする。
「なんか、ちょっと出来すぎじゃない?」
「なにが?」
「だって、たまたま聞いてたこの人に、たまたまそういうことが起こるなんて。だって、人口だって何万人もいるわけでしょう?」
「来たらしいわよ」
 亮子はこともなげに、さらりと答えた。
「この話を聞いた全員のとこに」
「え」
「ただ、他の人は回避を方法を知っていた。彼女は知らなかった。ただそれだけ」
「待ってよ。待って」
 私は混乱してきた。息があがる。
 亮子が手帳のページをめくる。黒革の、それは禍々しい。
「これはつまり、よくある『聞くと呪われる』タイプの話だったということかしら。この『呪われる』にはバリエーションがあって、ざっと『死』『発狂』『行方不明』なんてのもある。ただ『行方不明』というのは生死不明の状態だから、『死』もそこに含まれるのかもしれないけど。それから、今回の『失う』――」
 めまいがする。
「なぜ、呪われて『死ぬ』のか。というより、誰が『殺す』のか。ソレを見てしまったがために『狂い』、あるいは何処かへ連れ去られてしまって、『行方不明』になったりするのだとしたら」
「ソレ」
「この『聞くと呪われる』系は、話の存在を呼び寄せるの」
「呼ぶ」
 葵里がまたくり返す。
「……呼ぶ?」
 それから私たちは、一斉に亮子を見た。彼女の眉が、すとんと下がる。
「……巻き込んだわね。――また」
「さ、さあ。なんのことかしら?」
「あんた、自分とこに来るかもしれないから、びびって私たちに話したのね」
「し、知らないわよ?」
「おい、誤魔化すな。こっち見ろ」
 亮子は絶対に目を合わせようとしなかった。
 夕方のサイレンが、ただただいつものようにうなり声をあげるのだった。

 

 

    セクション5

 

 いつだってこうなのだ。おかしなことを持ってくるのは亮子で、そのおかしなことに巻き込まれるのはいつも私たち。
 さっさと亮子が逃げだし、半狂乱になった環をなだめながら葵里が帰り、私はなんとも言えない複雑な気持ちで取り残されていた。
 時計を見ると、十八時半を少し回ったあたりだ。
 夕食の準備をしようと冷蔵庫を開けたが、今日は姉さんが遅くなるからと、朝のうちに準備してくれていったことを思い出す。
 食事を作らなくていいので助かったが、何時に帰るともしれぬ肉親が恨めしくもあった。
 姉さんは雑誌の編集の仕事をしているので、日付が変わるころに帰ってくることもよくあったから。
 レンジをかけている間にテレビをつける。
 日常の行動なのに、なぜか今日は落ち着かない。
 別にひとりでいるのなんてめずらしいことじゃない。今日にかぎってということでもない。
 なんというか、胸さわぎがする。
 たとえば今夜にでも、この家に、私ひとりしかいない我が家に、やって来そうな気がするのだ。
 それがなにかはわからない。自分には霊感はない。虫の報せめいたものかもしれないが、ただ臆病になって、疑心暗鬼になってるだけだと思う。そもそも、そんなことが起こるわけがないではないか。
 そうは思いながらも、心のどこかでは「ひょっとしたら、あるのでは……」とくすぶる。
 それは、きっと恐れゆえだ。素直に認めるのは、なんだかくやしい気がするけど。
 安全をおびやかされるから恐怖するのだ。その危険をいち早く感じとることで、回避し、生存確率が高まる。これは生物の本能だ。
 この場合の恐怖に質はない。そもそも未知であるがゆえに恐れを感じるのだから、正体がわからないのならば、みな同じである。
 少し寒い。
 ご飯を食べたら、さっさとお風呂に入ろう。そして、悪いけど姉さんを待たずに寝てしまおう。
 あとで環に電話して、バカ話でもしよう。それから明日、なんでもなかった、なにも起こらなかったということを亮子に見せつけて、葵里と一緒に笑ってやろう。明日もみんなで遊ぶんだ。
(でもね、こういうものにはちゃんと回避方法もあるの。だって、理不尽でしょう)
 亮子の捨て台詞だったが、返答しだいで手や足がなくなったり増えたりするのを、はたして理不尽と呼んでよいものか。
 あまり味わえなかった夕食を終え、申し訳ない気持ちで食器を洗っていると、何気なしに戸棚の果物に目が行った。バナナだった。
 たしか、小学生のころに似たような話が流行ったのを思い出した。
 さちこという名前の女の子が、バナナを半分しか食べられないという童謡にまつわる怪談。
 さちこちゃんは事故で体が半分になったから、大好きなバナナも半分しか食べられない。なんであんな不謹慎な話が流行ったんだろう。
(この話を聞いた人は注意してね)
(今夜、さっちゃんが行くかもしれないから)
 上級生だったと思う。怖がる下級生の様子を楽しんでいたのかもしれない。
(どうしてもバナナを食べたいさっちゃんはね)
(布団から出てる、腕や脚を)
(バナナだと思って)
(――切り取って持っていくの)
 この話の結果も、『失う』だ。
 聞いたら呪われる系の、やってくる系の、失う、怪談。
(だから)
(布団から出しちゃダメだよ。手も、足も。絶対に)
(さっちゃんに見つからないように)
(もしくは)
(枕もとにバナナを置いて寝るといいよ。だめなら、バナナの絵でも大丈夫)
(バナナが大好きなさっちゃん。うれしくてさっちゃん、持って帰るそう)
 こんな感じだったと思う。
 怖がりな環は、何度描いてもバナナに見えないのではないかと不安になり、親に描いてもらった絵を枕もとに置いて、真夏なのに布団をかぶっていたそうだ。翌朝はひどいげっそりしていた。一睡もできなかったらしい。ちなみにいまだに彼女は、夏でも手足をだして寝ることができない。
 たしか私は強がって、「そんなことあるわけないじゃん」と突っぱねて、それでも一応家にバナナがあるか確認して(なかったんだけど)、迷ったあげく姉さんと一緒に寝てもらったのだ。
 やっぱり私も理由を言えなくて、あきれられながら布団をかぶった。夜中にタオルケットを蹴っていたみたいで、朝起きて愕然としてしまったけれど、手も足も無事だったことにひどく安堵していた。
 小学生の話だ。そして、いまは高校生だ。信じるほうが笑ってしまう。
 おかげで環と話すネタができた。彼女はきっと、またバナナの絵を描く。私は枕もとにバナナを置こう。

 

     *

 

 そもそも、私は夢のない子どもだった。
 たとえばサンタクロースが、たった一晩で世界中の子どもたちにプレゼントを配れるわけがないから、そんなものは存在しないのだろうと考えていた。でもプレゼントはほしいので、サンタクロースの存在は都合よく信じていたりもした。
 ただ、神様だって信じる者にはいるわけだから、オバケの類だってそうだろう。信じてない人には見えない。見えないのなら、いてもいないことと同じ。
 だから、本当はちっとも怖いことなんてないのだ。
 部屋の電気を落とし、布団に入り、もう時計は深夜をさそうとしていた。
 眠れない。姉さんはまだ帰ってこない。
 泊まり込みになることもあったから、たまたま今日がその日なのかもしれない。一応メッセージを送ってみたが、いまだ既読はつかない。
 目をつぶる。眠れない。
 サンタの正体を見てやろうとしていた、クリスマスの夜みたいだ。
 結局、サンタさんは親だった。親でよかった。知らない、見たこともない人でなくて。知らない人が夜中部屋に入ってくるのは、いくらなんでも恐ろしいではないか。
 私はたぶん、期待している。怖いと思いながら。怖がりながら。
 ――見たいと願っている。
 そしたら私は、きっと「特別」になれる。平凡な日常が、きっと「特別」になる。
 けれども、その刺激は危険だった。
 見たこともないのに、想像のなかで大きなカゴを背負った影がうかぶ。そこにおびただしい数の、血なまぐさい手足が入っている。
 問いかけに答えねば、手足を失うか、得るのである。
 襤褸をまとったそれは、きっと「ノー」と答えた人の手足をちょん切って、「イエス」と答えた人に植えつけるのだろう。
 月の光を浴びて、深夜の街を音もなく、この家に向かってくる。私を求めてやってくる。そうして乾いた指がインターホンを押すのだろう。いますぐにでも起こりそうな、そんな妄想。その答えも、まだ持っていないのに。
 怖い想像は、いつも闇の中で育てられる。頭を洗ってるとき、目を閉じてると生まれる不安と同じだ。
 眠れない。
 私は何度も姿勢を変えた。布団のなかでまるまって、手も足も出さずに。
 なのに、こんなときにかぎってトイレに行きたい。出したくない。
 無駄な抵抗なので、あきらめてベッドから身を起こす。時計を見ると、深夜の一時をまわっていた。部屋を出る。廊下は窓から差し込む月明かりに、不気味なぐらいあかるかった。足裏はひんやり冷たい。
 玄関を見る。暗い。
 背を向ける。トイレは反対だ。
 なのに――、足が止まる。
 トン、トン、と。
 ふり向けない。
 なにかが小さく、ドアを叩く音がした。

 

  ……い、る。

 細く。玄関からの声。家の外。誰かがいる。

  ……る、あ……いる。

 いや。私は会いたかったのだ。
 ひるがえり、玄関に向かう。
 なんと答えたらいいのだろう。
 震える指でカギをあけ、ドアを開く。
 黒い影がすっと家のなかに入ってきた。
「……お帰り、姉さん」
 私が言うと、彼女は眠そうな目でもう一度言った。
 ――舞子いる? 開いている?

 

 

    ラストセクション

 

 翌日、また家で集まることになったのだが、環は見るも無残なくらいにげっそりしていた。きっとまた眠れなかったに違いない。
 反対に亮子などはうれしそうに、「来た? ねえ来た?」とはやしたてて、容赦なく環にひっぱたかれた。
「くそ! 暴力反対! 訴えるぞ!」
「やかましいわ! ひとがどんな思いで――!」
「……ねえ」
 私はうまく空間の呼吸を使えない。
「あのさ。――答え、わかっちゃったんだけどさ」
 一瞬の間があき、驚いた顔で亮子と環がふり向いた。
「謎かけの? うそでしょ」
「ホンマか! 答えはなんと?」
 とりあえずわかることは、昨夜は誰のところにもそれはやって来なかったという事実である。
「あ。うん。あのね――」
 口を開きかけると、葵里がうれしそうに手を叩いた。
「マイもわかったんだ」
「え、葵里も?」
 私たちはあっけにとられた。
「わりと手が込んでたよねぇ」
 葵里はスマホを取り出すと、『from』に接続した。昨日入会した、と言って。それから『FCaT』さんのプロフィールページを開く。
「これ、りょっぺでしょ」
「ぎゃ」
 予想外の悲鳴があがった。
「たぶん、中学の時の写真じゃないかなぁ。顔見えないようにしてるし、髪型も違うからちょっとわかりにくいけど。……サブアカ? それともいま使ってるのを新しく取り直して、埋もれてたアカウントを再利用したのかな?」
 私たちは困惑していたが、一番困惑していたのは亮子だったろう。見る見るうちに顔色が変わっていく。これはきっと、青いマントを選んだに違いない。
「チョット待って、あいや待ってください。葵里。答え、って、あれ、あの――そっち……?」
「片手がないのだって、わざとブカブカのTシャツ着てるからでしょう? 後ろに手をまわして、写真に写らないようにしてるだけだし。こんなちっちゃい画像だとわかりづらいしね」
 また葵里は空気も読まずにぶっ込んできたなぁと、私はひそかに思った。しかもそれは、私が言おうとしてたことと全然違う、完全な顛末。
 つまりは、全部亮子の仕込みだった。そう言いたいわけである。すなわち『FCaT』と『魎呼』の一人二役。『Flower Cat』は亮子ン家の店名だ。まわりくどい。
「……ホ、ホンマか?」
 環の追求に、亮子が目を白黒させている。
「チ、チガウよ?」
「目ぇ見て言うてみい」
「ミテルヨ、イエルヨ、チガウヨ」
「見てへんやないか。それより、なんだな。もうちょいエエ声で鳴いてみたくないか?」
「あー、うっさいわね!」
 亮子は立ち上がる。逆ギレだ。
「いいじゃない、べつに。ちょっと軽いエンターテインメント提供しただけじゃん! おもしろかったでしょ? ぞくぞくしたでしょ? 世の中のホラーなんて、全部が全部ホンモノなわけないでしょ! 心霊番組だってヤラセだし、あからさまな合成動画も転載だし! あたしが叩かれるのおかしくない?」
 オカルト少女のセリフとは思えない。彼女は彼女なりに、現実とフィクションをしっかり線引しているということか。
 意外だった。そもそも認めない環、冷静に裏をさぐる葵里。できていないのは、私だけなのだろうか。
「でも、本物もあるでしょう……?」
 おそるおそるたずねると、亮子はまっすぐにこちらを見すえた。
「それを見るのが、あたしの夢なんだ。なにが本物か、なにが偽物か、それをちゃんと見きわめられないと本当の本当を見逃すから。みんな、イイ線いってんじゃない?」
「この。減らず口をたたきおって。よう言うわ」
 環はあきれたようにため息をついた。
「それよりアオリン。謎かけの正解はなんなんや? この不届き者に、トドメでぎゃふんと言わしたってや」
「ん。知らない」
 葵里は笑う。
「なんやねん、ハッタリかいな。しゃあない亮子、白状しいや」
「ところがどっこい。残念ながら、知らないんだなぁ」
 亮子は肩をすくめた。
「……は?」
「いや。本当に知らないのよ。あたしもどこかから聞いた話だから」
 環の顔色が変わる。
「なんやて。それじゃあ、もし今夜にでもそいつが訪ねてきたら、なんて答えたらええねん!」
「や。だからりょっぺの作り話だって。来るわけないよ」
 葵里がしょうがないなぁみたいな顔で手を振る。
「いやいやいや。そんなんわからへんやん! 来るかも知れへんやん! そしたら、なんて答えたらええねん! ごっつ怖いやん!」
「ほんと環からかうとおもしろいなぁ」
 張本人が懲りもせずそんなことを言うものだから、また容赦なくぶん殴られていた。
「で。なんて答えたらいいの、マイ」
 ふり向いて葵里がたずねてくる。すがりつくような環の目。不機嫌そうな亮子。
 そう、これは私が思いいたったわけではない。残念ながら現実でも、私はミステリの読者なのかもしれない。

 

     *

 

「ああ、それ『カシマさん』じゃない?」
 リビングで姉さんのスマホが光っている。気づかなかった。キーケースと一緒に忘れていったらしい。
 それで私に返信できなかったし、連絡もできなかった。ついでに、カギもなかったので家に入るときどうしようかと困っていたそうだ。
 ただ、たまたま私がトイレに起きて、ちょうど玄関の外にいた姉さんが、ちょうどのタイミングでドアをノックした。夜中だったのでさすがに非常識だろうと、インターホンを避けたんだそうだ。
 ――舞子いる? 開いている?
 ドア越しで、声も小さかったせいでよく聞きとれなかった。
 疲れているだろう姉に、せめてもと紅茶を淹れる。
 私の話をひと通り聞いたあと、姉さんはこともなげに答えたのだ。
「『カシマさん』?」
「そう、知らない?」
 もともと開いてるのか判別のむずかしい目をこすり、小さくあくびを噛み殺している。こんな時間にこんな相談するのが申し訳ないような気になった。
「都市伝説よ。この話を聞くと、夢に出てきて謎かけするの。それに答えられないと、手足が奪われちゃうってやつ。その派生なのかしら、そっくりよ」
 まあ私の顔を見るなり、「悩みごと? お姉ちゃんに話してごらん?」なんて言うものだから、ついつい話してしまったわけだが。なんだかんだ言っても、やっぱり大人な姉さんに頼ってしまう。
「謎かけ? どんな?」
「『手をよこせ』あるいは『足をよこせ』だったかな」
 たしかに似ている。
「それじゃあ、なんて答えたらいいの?」
「『いま使ってます』とか『いま必要です』だったかな?」
 メールチェックをしながら、姉さんはマグカップでくちびるを湿らせた。
「え。それでいいの?」
「たしか」
 姉さんはいろいろ知っているが、時々変なことも知っている。それはきっと、彼女も数年前までは現役の学生であったのと、あとはやっぱり姉妹なんだということだろう。
「舞子」
 姉さんは心配そうに顔をあげた。
「もしかして、それで怖くて寝れなかったの? あなた、昔っから怖いテレビ見ると寝れない子だったわよね」
「やめてよ、子ども扱いしないでよ。……ありがとう」
 声もださずに姉さんが笑った。私ははずかしくなって、あわててぶんぶんと手を振った。
 でも。
 たしかにこの話は、姉さんのいう『カシマさん』とよく似ている。『赤マント青マント』と『赤い紙青い紙』のように、派生あるいはその発展形と考えるのが自然だろう。
 けれども、たとえば仮に訪問販売の押し売り業者を想定して、「こちらの商品いりますか?」と聞かれて「いま使ってます」「いま必要です」と答えるのは、ちょっと噛み合わない。
 やはり、「イエス」か「ノー」ではないだろうか。
「またむずかしい顔してるわねぇ。夜更かしは体に毒よ。付き合ってあげたいけど、私明日も早いから、お風呂入って寝るわね」
 姉さんは立ち上がって、マグカップを洗いだす。時計は二時をすぎた。
「あ、うん。あの……、姉さん」
「なに?」
「うん、ごめんね。一個だけ。あのさ、もしさ、押し売りが家に来て、『これいりませんかー?』って言ってきたらどうする?」
 姉さんはちょっとだけ笑って、「招かざる者に答える必要なし。だまってドア閉めちゃえば?」と言った。
 なるほど、それが答えか。と思った。
 なんでもかんでも受け止めていては持たない。イエスでもノーでもなく、時には無視して相手にしないことも、きっと必要なのだ。
 私はなんだか、少し体が軽くなったような気がした。
「それじゃあ姉さん、おやすみ」
 姉さんにはわからなかったと思うが、それでも私の表情を見て、またゆったりと微笑んだ。
「おやすみ。良い夢を」
 部屋に戻ろうとリビングを出たところ、玄関からインターホンが鳴った。

 

 

〈終〉

セクション2

 怖い話をしていると、なんとも言えない独特の空気に包まれることがある。

 ひっそりと友人同士でする怪談話であったり、ネットや本でその手の話を読んでいるときなんかもそうだ。

 なんとなく、「見られている」ような不穏な気配と、首の後ろの神経がきゅっと圧迫される嫌な感触におぼえがあるだろう。

 無論、ふり返ってみたところで怪談の主は見えない。かといって、その視線が背後からともかぎらないから、後ろを見たって消えたりはしない。

 やはりそれは、「包まれている」と言える。

 なにも自分が、その内にいるときだけではない。

 気配は空気を伝う。少し離れたところからでも、それはたしかに届くのだ。

 放課後、教室の隅からこぼれる囁きは、まるで少女たちの秘め事であるかのよう。耳をすませば、じっとりほの暗いうわさ話。

 ――夜中、廊下のきしむ音で目が覚めて。

 

 ――でもこんな時間に誰かがいるはずもなく。

 

 ――のぞいてみたけど、やっぱり誰もいなくて。

 

 ――布団に戻ろうとしたら電話が鳴って。

 

 ――入院中のおじいちゃんが亡くなったって。

 

 怪談に正体はない。

 匂わせながらも言及しないことにより、恐怖は想像に支配される。

 つまり、個人差があるのだ。

 恐怖を作りだしているのは自分だ。

 その感情は、原初よりそなわっている。ひとが道具や言葉を使う以前から。

 それは、死に直結しているからに他ならない。危険を回避せよと脳からの指示なのだ。すなわち「逃げよ」と。

 だから、恐怖を楽しむという行為は、死をも覚悟しなければならない。心霊スポット巡りなど言語道断だ。

 そのため怪談は、本来秘め事などではなく忌み事なのである。

 

 


    セクション1

 

 放課後を告げるチャイムの音。
「――えー、以上でホームルームを終わる。お疲れさん。みんな、気をつけて帰るように」
 佳代ちゃんの言葉が終わるより早く、クラスはざわめきにあふれる。
 駅前にできたアイスクリーム屋さんの話題、今夜のテレビドラマのおさらいから予想、部活の先輩の文句に、新譜の話題。
 思い出したように話題が、まるでこれまでの時間の延長であるかのように、あたりまえのような顔で戻ってくる。
 金曜の放課は、学生にとってパラダイスだ。週末の特別感が空気をきらきら輝かせ、浮き足だった鳥のように体を舞いあがらせる。
 そのうえ今日は、中間テストの最終日でもあったから、解放感もまたひとしおである。
 私は私で、なぜ三日目は英語と数学が重なって襲ってくるのか、これは学年主任の陰謀に違いないとひそかに憤り、早くも来週の結果発表に戦々恐々と、そしてまた憂鬱な気分で落ち込んでいたのであった。
 そこへ容赦なく現実の声が、追い打ちをかけてくる。
「あーっと、言い忘れた。橘、御影、長谷川に如月――って、いつもの四人! あとで職員室に来るように!」
 強めの語調で言い残すと、担任の滝川佳代先生は足音高めに教室を出ていった。ああ、やっぱり来たかと思った。
 極力考えないようにしていたが、やはり見逃してもらえるわけもなく、さらなる憂鬱に私は沈痛の息をついたのだった。
 隣を見れば、当の張本人はすずしい顔で帰り支度をはじめている。彼女の特技のひとつに、都合の悪いことは聞こえない、というのがある。
「……呼ばれたわよ、亮子」
 背が小さくて目の大きなクラスメイトが、普段からは想像もつかないほどさわやかな顔でふり返った。
「え? なにが?」
 地声は高く、キンキン響くタイプであるが、いまはそれに輪をかけた作り声である。すっとぼけの表情は堂に入ってるし、演劇部の私よりも空々しさは上だと思う。
「さぁってと、帰ろうかなぁ。あ、そうだ。今日はお店番たのまれてるんだった」
 彼女の家は花屋である。ドス黒い腹できれいな花を売っているのだ。
 立ち上がる亮子の襟首を、まるで猫を扱うように後ろの席から環がつかんだ。
「おぉっと、亮子。どないしたん? お腹でも痛いんか? よーし、薬もろてこよな。佳代ちゃんとこで。ちぃとばかし苦いかもしれへんけどな」
 関西のイントネーションで低く、環が歯を見せた。
「は、放しなさいよ、この馬鹿力……!」
 身長一四〇センチ台の亮子にとって、バレー部の環では相手にならない。くわえて環は重量級である。
「あん? 馬鹿はどっちや馬鹿は」
「うっさいわね! ちょっとデカイからっていばってんじゃないわよ。民主主義の世のなか、暴力で解決しようなんて野蛮、通用するもんかっ」
「小動物は首根っこつかむとおとなしうなるいうで」
「あたたたたっ! いた。いたい。だから、いーたーい! っての!」
「よーし、このまま職員室に連行やな!」
 さすが環。亮子のあつかいに慣れている。そうして脱出ポットのごとく放りだして、無事戦線離脱してくることだろう。
「いってらっしゃーい」
 私はひらひらと手を振って見送ることにした。
「はぁ? ちょっとちょっと耳腐った? あんたも呼ばれてたでしょうが」
 涙目で小動物が抗議した。
「ふふふー、なにかなぁ。わたし褒められることしたかなぁ」
 のんきな声で、にこにこ顔の葵里が輪にくわわる。
 私はあきれてため息をついた。
「逆だと思うよ、葵里。どっからくるのよその自信」
「逆」
 葵里がきょとんと反芻する。本気でわからないらしい。この子は時々おめでたい。
 環とは保育園からの親友で、亮子も葵里もそれぞれ別の中学からの生徒で、高校に入ってからの友だちだ。いわゆるこれが、私たちのグループである。
「あ、あたし心当たりないし。やだなぁ知らないなぁ」
 ようやく環の手を振りほどき、そそくさと方向転換した亮子を、今度は私がつかんだ。あくまでとぼけて、堂々とボイコットが通用すると思い込んでるらしい。
「……私はあるわよ、亮子」
「え、そうなの? やっぱり舞子が悪いの?」
 さりげなくアーモンド型の大きな目をそむけてる。絶対に私を見ようとしない。これ知ってる。ネコが叱られるときにするやつだ。
 私もにっこり笑って、笑顔のまま渾身の力で腕を抜こうとする彼女を、意地でも離さなかった。
「亮子」
「なによ舞子、痛いわ。広い心よ、ピースマインドよ。イッツアスモールワールド」
 私はぶちっ、といった。
「あー、もう! 昨日、B棟踊り場の鏡にベタベタとお札貼りまくったの誰よ! あんたでしょう! だから言ったじゃん、怒られるに決まってんでしょ!」
 すぅっと、大きな目が濃いまつげに半分閉ざされる。安いうわっつらの仮面がぼろぼろ落ちる瞬間だった。
「はぁ? なに言ってんの、もしかして封印のこと? 学園の危機を救ったってのに心外だわ。生徒が四時ババアに襲われるのを食い止めたんじゃない」
「あのね。どこに危機があったってのよ」
「はん! 警察みたいなこと言うのね。被害に遭ってからじゃ遅いのよ。だから、未然に防いだわけ。言わば正義の味方よ?」
「あー、はいはい。だったらきっと褒めてもらえるから、ひとりで職員室行きなよ。と言うか行け。手柄のひとり占めさせてやる」
「はぁ? そういうのはね、誰がやったかわからないからかっこいいんじゃない。正義は語らずよ。だいいちね、おもしろがってB棟の鏡という鏡にお札貼りまくったの、あんたたちだって共犯なんだからね!」
 クラスメイトたちの痛い視線を感じながら、私は怒りに叫びだしたくなるのを必死に堪えて、最後に残る精一杯の良心で笑顔をつくった。
「亮子。いい、亮子。あのね、これは単純な問題なの。ひとりの内申に、ちょーっとだけ傷がつけばすむていどの。亮子ならわかるわよね。無関係な私たちに、どうか友情の尊さを教えてちょうだい」
「ゆうじょう! 友情! その口が語るか、舞子! 斎河高校探偵団のメンバーとして恥を知れ!」
「あ・の・ねぇ。何度も言うけど、私は演劇部。環はバレー部で、葵里は帰宅部。そして、あんたは文芸部でしょうが! わけのわかんない所属に入れるな! はずかしい!」
 ドンと机を叩く。クラスの注目が一斉に集まった。
「おー、なんだなんだ。言い分が通らなくなった途端、すぐ大きな音をたてる。理知的な行動とは言えなくってよ、舞子さん? ……あ、舞子は理知的じゃなかったっけ。あははは!」
「言ったな、チビクソが。いままで見なかったことにしといてあげたけど、制服のそでの折り返し、ちょっと大きいんじゃない?」
「それはひがみ? あたしが萌えそでにした日には、ファンたち悩殺まちがいなし。かわいさセーブしてんのよ、わかんないかしら」
「ファン? あんたが毎朝餌付けしてる近所の野良猫の話か? でもよかったわねぇ、相手がせめて哺乳類で」
「なんだと! 舞子の好きな男子の名前バラすぞ。一年――」
「うわっ! わ! ま、待って! 待って、ごめん! ごめん!」
 環が廊下の方を向いて、渋い顔をしたのが見えた。葵里が小さく私のそでを引いたことも。
 佳代ちゃんが、目尻をぴくぴくさせながら立っていた。
「いつまでたっても来ないと思ったら、よそのクラスからクレーム。あわてて戻ってみれば、ここはいつから動物園になった? 橘、御影、長谷川に如月! おまえら、いいかげんに――!」
 放課後の一年A組に、大きなカミナリが落ちた。

セクション3
セクション4
セクション5
ラストセクション
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